超高速 西国33番「順打ち」巡礼編その11【15今熊野観音寺、16番清水寺、17六波羅蜜寺】OB首長~気まま旅~

第15番札所 今熊野観音寺

 昔より 立つとも知らぬ 今熊野 ほとけの誓い あらたなりけり

 

「日本一の大天狗」が招請した熊野権現

この寺の正式名は新那智山・観音寺である。寺の縁起によると、弘法大師がこの地で熊野権現に出会い、観音像を託された。そこで大師は自ら十一面観音像を刻んで、その像を胎内に納めて、堂を建立したとある。やがて紀州熊野を観音の住む補陀洛浄土とする信仰が広まると、ここの観音像は熊野権現が現れた地に立つ観音様として人気を集めた。そこで後白河法皇は熊野権現を京に勧請して今熊野神社を建て、本地仏を祀る堂として今熊野観音寺を崇拝したという。

 

今熊野観音寺 本堂

 

「日本一の大天狗」と称され、老獪な人物といわれる後白河帝だが、意外にも信心深く、歴代の上皇・法皇の中でも最も多い34回もの熊野詣を行ったという。専制君主として40年にわたり君臨した後白河だが、その治政は源平合戦などの激動の中で安定することがなく、身の危機にもさらされ、苦悩が絶えなかったのかもしれない。もしかすれば政治のトップとして、国難が繰りかえされることへの責任感と罪悪感が、彼を熊野参拝に走らせたのかもしれない。

 

山腹に立つ朱塗りの多宝塔は目立つ建物で医学に貢献した人物を顕彰するために建てられたという。平安時代の丹波康頼(日本最初の医学書の著者)、江戸時代の貝原益軒、山脇東洋など著名な医学者が祀られているという。また、観音寺には後白河法皇の持病が治ったという霊験譚が伝えられている。酷い頭痛は慢性病だったようだが、その平癒を願い本尊の観音さんに祈願すると、ある日の夜、枕元に観音が現れ、法皇の頭に光明が差しかかり、長年苦しんだ頭痛がたちまち癒えたというのだ。

 

今熊野観音寺 鳥居橋

 

【一言アドバイス】

市内から少しだけ東山麓に入るだけで、こんなに静寂なのかと先ずは驚く。今熊野川に架かる鳥居橋を渡ると全くの別空間である。ご本尊は頭の悩みや知恵授けに霊験があらたかな「頭の観音さん」として広く親しまれている。加えて、大師堂の前には、心身のボケを取り除いてくれるという有り難い「ボケ封じ観音」までが立っているのだ。間違いなく私向けの寺であった。

 

今熊野観音寺 ぼけ封じ観音

 

 

第16番札所 音羽山(おとわさん)・清水寺(きよみずでら)

松風や 音羽の滝の 清水を 結ぶこころは 涼しかるらん

 

京都観光の目玉の寺・・観光客は500万人を超える

清水寺の開基は宝亀9年(778)法相宗の延鎮上人によるとされ、坂上田村麻呂の支援で堂塔が整備されたと伝わる。寺の名前は音羽山から湧き出て滝となって落ちる「清水(しみず)」が由来だ。この水を飲むと、延命長寿・学問成就に加え、縁結びのご利益が得られると云われる。ご本尊は十一面千手千眼観音(秘仏)で延鎮の造像。『一寸法師』の説話にも登場し、子ども達でも知っているお寺だ。

 

清水寺 音羽の滝

 

清水寺が数多くの参拝者や観光客を引き寄せるのは、何といっても本堂の南向けに造られた舞台(国宝)である。「清水の舞台から飛び降りる・・」の語源だ。高さは12mというから、舞台は4階建てのビルの屋上に相当し、音羽山麓にあることから京都市内が一望できる。平安時代後期に参拝者が急増したことから、本堂の床を拡張する目的で造られたものだが、本堂に鎮座する仏像よりも舞台の方が有名になったのだから「主客転倒」の代表例ともいえる。

 

 

清水寺 清水の舞台(国宝)

 

本堂は創建以来1250年の間に、10回以上も焼失している。京都全域を焦土と化した「応仁の乱」などの戦乱もあったし、他寺院からの延焼の記録も残るが、教団間の対立で3度も焼き討ちされている。平安時代から鎌倉時代にかけて、南都教団(興福寺など)と北嶺教団(延暦寺など)が荘園の権利拡大を巡って抗争したが、清水寺(興福寺の末寺であった)は南都の出先機関と見なされ、北嶺教団から幾度となく武力攻撃されたのだ。

 

現在の堂塔の多くは、江戸時代初期に3代将軍家光の寄進で再建されたものだ。本堂と舞台が国宝、西門などが重要文化財となっており、さらに伽藍と寺域一帯がユネスコ世界遺産に登録されている。

清水寺(寺域一帯がユネスコ世界遺産)

 

【一言アドバイス】

聞き及んではいたが、清水坂は東京の通勤ラッシュ並の混み具合だ。アジア系の外国人観光客で大混雑し、参拝がままならない。納経帳とおいずるの朱印をもらうのがやっとで、何の仏像や展示物も見ていない。駐車場は観光バスのメッカだ。(観光客が少ないであろう)早朝に参拝されることをお薦めしたい。

 

 

第16番札所 補陀洛山 六波羅密寺 (ふだらくさん ろくはらみつじ)

重くとも 五つの罪は よもあらじ  六波羅堂へ 参る身なれば

 

利他主義と社会奉仕の聖僧 ~空也上人~

六波羅密寺は京都市街の東方に位置する小さな寺(1,400坪)である。しかし創建当初の境内は、東京ドーム23個分(約33万坪)もの広さだったというから驚きである。平安時代後期にはその敷地に平家一門が「六波羅館」とよばれた屋敷群を構えた。また鎌倉幕府はここに「六波羅探題」を設けて朝廷の動きを監視した。現代人は(お寺の存在よりも)歴史で習った探題で「六波羅」の名を知っている。応仁の乱などの戦乱でもこの寺(本堂)は奇跡的に焼け残り、明治の廃仏毀釈で境内の面積を大きく減らしながら、現在の姿に至っている。

 

六波羅蜜寺 本堂

 

創建は空也上人である。空也は平安時代中期に念仏を通して自らの仏教の普及を図り、市井に出て社会奉仕事業(井戸・道路・橋の建設、衛生思想と病気平癒)に積極的に携わった人物だ。よって市聖・阿弥聖などと敬われた聖僧である。彼の功績に感謝した村上天皇が(命じて)彼の布教の拠点となる堂舎を建てたのが西光寺であり、その西光寺が六波羅密寺の前身だという。

 

ご本尊は空也が造像した十一面観音である。この観音さんは病気を治したり、罪を減じるなど「救済の働き」で強い力を発揮すると云われている。

 

【一言アドバイス】

この寺には空也上人の言葉が受け継がれ、関係者はその実践に努められているという。「彼を先とし我を後とする思いを我が思いとし、他を利し己を忘れる心を持って我が心とせよ」との教えだ。常に相手の立場でものごとを考え、社会奉仕するために献身する心を持ち続けよ、という「寺訓」である。空也上人を名前だけでしか知らなかった私は、心から恥ずかしく、反省しきりである。空也上人こそ、利他主義の祖であり、英知をもって社会奉仕に献身された大聖人なのだ。空也上人の教えを学んで、再び訪問してみたい寺である。

 

空也上人立像(利他主義の聖僧)

 

第2行程の初日(通算3日目)の参拝はこの寺で終わり、京都市内に宿をとって翌日に備えた。早朝に多可町の自宅を出て1日で8ヶ寺を廻ったが、それぞれの距離が離れていないので、そんなに無理な日程ではなかった。

 

 

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