超高速 西国33番「順打ち」巡礼編その12【18六角堂、19革堂】OB首長~気まま旅~

第17番札所 六角堂(ろっかくどう)・紫雲山頂法寺(しうんざん ちょうほうじ)

わが思う 心のうちは 六つの角  ただ円かれと 祈るなりけり

 

華道「池坊」の家元は、代々この寺の住職・・

縁起によれば飛鳥時代(587年)に聖徳太子がこの地を訪れ、念持仏の如意輪観音を祀る六角の堂を建てたのが始まり、というから歴史は古い。初代の住職には小野妹子が就いたと伝わる。唐から帰国した後に建てた坊舎が池の畔にあったので「池坊」と呼ばれるようになり、歴代の住職は仏前に花を供えてきた。その作法が室町時代に確立して「生け花」となり、この寺の住職は華道・池坊の家元を代々続けている。要するにこの寺は、池坊の家元として全国の数多くの門弟を有している生け花の総本家なのだ。

 

六角堂(頂法寺)

 

六角堂には京都の中心を表すという「へそ石」があり、本堂の礎石となっている。その位置は創建以来一度も変わっていないそうだ。平安時代から度重なる戦禍に悩ませられた京都だが、室町時代後半には自治や自衛の意識が芽生え、寺院ながらも六角堂はその活動拠点として機能したと伝わる。町衆が土一揆などに備えて集合するのは下京では六角堂であり、その合図はこの寺の鐘だったという。

 

六角堂(頂法寺本堂)

 

ご詠歌は「六角」と「六根清浄」の「六」を掛け合わせているようだ。人間の性格の六つの悪しき角を取り「ただ円かれと祈るなりけり・・」。意味を識っていれば、ご本尊を前にして、心して唱えられたと思うのだ。

 

ビルの上から見た六角堂

 

【一言アドバイス】

第2行程の2日目(通算4日目)のスタートは、京都のビルの谷間に囲まれたこの寺からだった。私は全く知らなかったが、生け花をやっている妻は(流派が違えども)頂法寺が池坊の家元であることを知っていた。妻の属する嵯峨御流もそのようだが「生け花」は、天皇家や上級貴族とも結びつきを持ちながら、寺院の供花の作法を元に生まれているのだ。華道を通して、この寺の知名度が高いことを(遅まきながら)知ることとなった。

 

 

第17番札所 革堂(こうどう) 霊麀山 行願寺(れいゆうざん ぎょうがんじ)

花を見て いまは望みも 革堂の  庭の千草も 盛りなるらん

 

革堂(行願寺)の寺門

 

殺生を悔いて仏門に・・社会に尽くした革の聖 (かわのひじり)

なぜ革堂と呼ぶのか、不思議だったが、訪ねてはじめて理由を知った。狩りをした行円は、射た(亡くなる間際の)メス鹿から子鹿が生まれるのを見て、殺生を悔い仏門に入った。行円はその鹿皮に経文を書いて常にまとい、人々の救済に当たった。彼の仏教に対する情熱と社会奉仕への行動力は都人の心を奪っていき、いつしか行円は「革聖」といわれるようになった。行円が60歳頃(1004年)、一条天皇の勅願により行願寺が創建された。彼の衣服が常に皮革製なので、この寺はいつしか「革堂」と呼ばれるようになったとある。

 

山号の霊麀山の字にある「麀」はメス鹿のことである。ご本尊は千手観音(秘仏)で賀茂神社にあった古い霊木を譲り受け、弘仁法師(行円の弟子)が彫ったと寺伝にあり、当時の神仏混淆を窺わせる重要事だ。行願寺の扁額は三蹟の一人、藤原行成の揮毫である。行願とは「一切衆生の成仏を願い行ずる」という意味だという。

 

行願寺(革堂)の本堂

 

この寺も六角堂(18番札所)と同じように、町衆の自治機能を高める役割を果たした寺である。境内の梵鐘も土一揆の襲来を知らせる有事の機能から、次第に人々の心を安らげる鐘の音に変わっていったようだ。何度も戦禍や火災にあい、移転縮小を余儀なくされてきた寺である。現存する堂舎は、天明8年(1788)の大火災の後に建てられたものである。

 

【一言アドバイス】

行願寺は、中京区の寺町通りに面して建つ。通りの名前通り、寺社が並びたち、紫煙と香声が辺り一面に漂っている。名前は知らないが、きっと各々が由緒正しく格式高い仏閣なのであろう。興味のある方は、通り一帯の仏閣探索を楽しまれるのも一興かと思われる。なお、この行願寺には「寿老神」が祀られており、都七福神巡りの一寺ともなっている。雅やかな京都は、一方で戦禍と動乱の地であり、仏さんと神さんが数多く住まわれる鎮魂と慰霊のまちでもあるのだ。

 

行願寺境内にある寿老神堂

 

 

 

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