超高速 西国33番「順打ち」巡礼編その16【28成相寺、29松尾寺、30宝厳寺】OB首長~気まま旅~

第28番札所 成相山 成相寺 (なりあいさん なりあいじ)

波の音 松のひびきも 成相の 風ふきわたす 天の橋立

 

成相寺(本堂)

 

ご本尊は美人観音として有名。

成相寺は奈良時代の慶雲元年(704)に文武天皇の勅願で創建された西国では一番北に位置する寺だ。名勝の「天の橋立」が眼下にでき、見える風景そのものが補陀洛(ふだらく)の世界なのかもしれない。開基は真応上人で寺号の由来は『今昔物語』にあるという。ご本尊は梵天国の姫君が姿を変えて現れたという美人観音(聖観世音菩薩)だ。

 

真応が修行僧の時、大雪となって堂舎が孤立、食糧が尽きて死を覚悟し、あと1日だけ生きる食料が欲しいと願ったという。すると壁の隙間の向こう側に鹿が倒れているのが見えた。真応は肉食が禁止されているのを分かりながらも、その鹿の腿を削いで鍋に入れて食べた。雪が融けて里人たちが登ってきて見ると、ご本尊の腿が切り取られ、鍋に木くずが散らばっていた。真応は観音様が身代わりとなった自分を助けてくれたことを悟り、木くずを拾って像の腿につけて祈った。すると観音様は元の通りに「相い成った」という。

 

本堂には江戸時代の名工・左甚五郎の作と伝えられる「真向の龍(まむきのりゅう)」が掲げられている。龍の顔が正面を向いている珍しい彫刻といわれ、評価が高い作品だ。また、唯一願を一言でお願いすれば、どんなことでも叶えてくれるという650年前からある「一願一言地蔵」が大人気と聞いた。さらに今は手水鉢として利用されているが、日本三大鉄船の一つ、国重要文化財の「鉄湯船」がこの寺にある。

 

【一言アドバイス】

ご本尊の聖観音は「身代わり観音」といわれ知られたが、小野小町が信仰したと伝わったことから、加えて、拝む女人が美しくなれる「美人観音」として有名となった。女性の読者には是非お参りいただき、さらに美人になってもらいたいと願うところだ。

 

第4行程の初日(通算6日目)は、自宅を早く出てこの寺から始めた。なにしろ竹生島に渡る船の時間が決められており、その時間までに28番・29番の参拝を済ませねばならなかったのだ。よって駆け足での参拝となってしまった。

 

 

第29番札所 青葉山 松尾寺(あおばやま まつおでら)

 そのかみは 幾世(いくよ)経ぬらん 便りをば 千歳(ちとせ)もここに 松の尾の寺

 

松尾寺(本堂)

 

馬頭観音を本尊とする唯一の寺。

松尾寺は若狭富士・青葉山(699m)の中腹に建つが、元々この山は神が宿るご神体として、山岳仏教と海洋信仰の両面から崇拝されてきた。山岳修行は泰澄(第12番岩間寺で記述)の白山信仰と同じ流れを汲んでおり、頂上での護摩修行で炊かれた火は、日本海を行き交う船の目印になったと云われている。

 

開基は中国の僧・威光上人で慶雲年間(708年)とされており、西国33所で一番北に位置する寺だ。ご本尊は威光が馬頭観音を感得して青葉山中の松の木で刻んだという座像で、この霊験が都に伝わり、元正天皇が本堂を建立し、松尾寺と名付けたと伝わる。平安時代後期の元永2年(1119)には鳥羽天皇の行幸があり、寺領4千石を給されている。その当時は七堂伽藍と65の宿坊を有する大寺院だったようだ。

 

室町時代後期・天文年間の戦乱による兵火で伽藍が焼失したというから、天文法華の乱の飛び火に因るのかもしれない。現在の伽藍は江戸時代に再建されている。本堂は宝形造りで二重のように見える屋根が美しい。手前の香炉の小さな囲い屋根も同じ造りなので、正面から見ると笠を三つ重ねたような優雅な建物にみえる。ご本尊は馬頭観音(秘仏)で、33所で本尊として祀っているのは松尾寺だけである。馬頭観世音菩薩は唯一憤怒相をした観音さまで、激しい怒りで諸悪を除いて煩悩を断つと信じられている。

 

【一言アドバイス】

国道27号線から北側に入る参詣道路は以外に長く、寺に近づくほどに狭くなっているので運転には十分に注意されたい。対向車とのすれ違いが難しい個所も多いが、運を天に任せるしか方法はない。駐車場は山門の前にあるので心配はいらない。28番成相寺でも記したが、近江今津港から竹生島に渡る船の時刻が午後1時10分なのだ。観光船なのにビックリするほど早い最終便で、ゆっくりした気持ちでの参拝をさせてくれなかったのが残念だった。

 

第30番札所 竹生島 宝厳寺(ちくぶしま ほうごんじ)

月も日も 波間(なみま)に浮かぶ 竹生島  船に宝を 積むここちして

 

宝厳寺(本堂)

 

琵琶湖に浮かぶ補陀洛(ふだらく)浄土

琵琶湖の北部に竹生島は浮かぶ。東京ドーム3個分ほどの孤島だと云うからそう大きくはない。観音浄土の補陀洛山を思わせるそう小島で、民家はない。その島に宝厳寺が開かれたのは奈良時代の神亀元年(724)行基が弁財天像を祀って堂舎を建てたのが始まりだ。最初の弁財天像は聖武天皇の勅令であり、観音像は庶民救済のための行基の発願だという。それ以来、宝厳寺のご本尊は弁財天、西国33所のご本尊は千手観音像とし、双方一体となって広く信仰を集めていった。

宝厳寺には安土桃山時代に豊臣家から寄進された太閤秀吉の遺構が二つあるという。一つは観音像(重文)と接する唐門(国宝)である。唐門は大阪城郭を形成する重要な建造物の一部が豊国廟の「極楽門」となって移設され、関ヶ原の合戦後に竹生島に据えられたといわれている。もう一つは船廊下(重文)で観音像と(明治期以降の)神社の本殿を結んでいる。幅1.8m、長さ30mという渡り廊下で、秀吉が朝鮮出兵時に用意した御座船「日本丸」の船櫓の材木が使われている。

竹生島(船廊下)

 

竹生島(船廊下の内部)

 

なぜ秀吉の遺構が宝厳寺にあるのか・・移設は1602年のことで、秀頼に命じられた片桐且元が普請奉行を務めたとある。これはきっと徳川家に追い詰められた湖北の名門・浅井家の出である淀殿が思い立ったことなのであろうと、素人でも容易に推測できる。

 

【一言アドバイス】

竹生島には船でないと渡ることはできない。近江今津港から渡ったが1日に4便だけで、午後1時10分が最終便なのだ。25分で竹生島に着くのに…。復路も午後2時50分、最終便で同じ船で戻った。対岸の長浜からの便もあるが、便数と時刻に大差は無い。夕刻の比良山からの強風が、海難事故を起こさせる可能性が高いのが理由なのだろう。よって、この行程は3寺院に限定されてしまう。やむなく南下して琵琶湖大橋を渡り、JR守山駅前に宿をとった。

 

近江今津から竹生島着

 

 

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