超高速 西国33番「順打ち」巡礼編その17【31長命寺、32観音正寺】OB首長~気まま旅~
第31番札所 姨綺耶山 長命寺(いきやさん ちょうめいじ)
八千歳(やちとせ)や 柳に長き 命寺(いのちでら) 運ぶ歩みの かざしなるらん
健康長寿の観音様が願いを叶える寺
長命寺が建つ奥島山(長命山:333m)は、かつて山そのものがご神体だった。寺伝によれば第12代景行天皇の時代にこの寺を訪ねた武内宿禰(たけのうちのすくね)が柳の巨木に「寿命長遠所願成就」と刻んで祈願したところ、300歳以上の長寿を保ち、5代の天皇に使えて活躍したという。その後の推古天皇27年(619)諸国訪歴でこの地を訪ねた聖徳太子が、その柳で千手・十一面・聖の三尊一体の観音像(ご本尊)を刻み、伽藍を建立して長命寺と命名したとある。よって宿禰を開闢(かいびゃく)、承徳太子を開基としている。
山腹にあり境内の面積は広くないが、伽藍の配置が独特で美しい寺だ。一団高いところに鐘楼があり、そこから見ると護法権現拝殿、三仏堂、本堂、三重塔と、檜皮葺きの屋根が重なって見られ、この寺の重厚さと威厳を感じさせる。正面・側面とも20mを超すという大きな本堂は、室町時代後期(1524)の再建で、寺内では最古の建物だ。また三重塔は、桃山時代の建立とある。境内からは琵琶湖が見下ろせ、比叡・比良の山並みが美しく映える。
湖畔に近い入口から808段あるという長命寺名物の石段は、真っ直ぐに本堂まで延びている。私たちは道幅の狭い専用道路を使ったが、脚力に自信のある方は石段を登って参拝されていた。きっと登段を終えられてからの感慨は格別であり、ご利益が多いだろうと思われたが、初老の夫婦では致し方ない。
【一言アドバイス】
本堂の前の石碑に琵琶湖周航歌の一節が刻まれていた。よく見ると、「西国~10番~長命寺~」との歌詞だ。31番札所がどうして10番なのかと疑問が湧き、寺僧に尋ねると「この方が歌いやすかったのでしょう」との返事。(長谷寺を一番とした)昔の巡礼コースでは10番だったのかも、と私は勝手に考えている。ここの狭隘道路も(距離は短いが)車の対向が難しく、運を天に任せるしかない。
第32番札所 繖山 観音正寺 (きぬがさざん かんのんしょうじ)
あなとうと 導きたまえ 観音寺 遠き国より ほこぶ歩みを
ご本尊は白檀(びゃくだん)で造られた大観音
観音正寺の本堂は標高434mの繖山の頂上付近にあり、表参道の石段は1200段もあるという。平成元年に林道が整備されるまでは西国巡礼の代表的な難所の一つで、参道には参拝者を元気づけるため、大きなスピーカーを使ってご詠歌が流されていたと聞く。寺伝によれば推古天皇13年(605)聖徳太子を開基とする。寺の縁起には2説あるが、人魚救済伝説の方を採る。
太子は近江国の葦原で、人魚に生まれ変わった堅田の漁師の訴えを聞いた。仏法を信じず、手当たり次第に魚を捕って無益な殺生をしたことを悔い、この苦しみから逃れたく成仏させて欲しいとのこと。そこで太子は自らの手で千手観音像を刻み、堂舎を建てて泰安したのが始まりと記している。この人魚伝説から、土地の人々が昔から、琵琶湖の魚を貴重な資源としていたことが窺い知れる。
鎌倉時代には守護の六角氏に庇護されて栄えたが、その後に堂舎は麓に移され、代わって山上には六角氏の観音寺城が築かれた。当時としては国内屈指の城郭だったが、六角氏は織田信長によって滅ぼされ、慶長2年(1597)に観音正寺は再び山上に戻っている。その後の堂舎も平成5年の出火で焼失し、堂内に安置されていたご本尊も同時に失われ、寺は最大のピンチを迎えた。
当時の住職はこの危機に際して並々ならぬ決意を抱き、香木の白檀を使った丈六サイズ(座高3.5m)の本尊の造像を発願した。しかし、白檀は手に入れるのは容易でなく、なお像彫は木質が堅くて難しさを極める。それでも住職はインド政府に何度もかけあい、その特別の計らいで23トンもの白檀を輸入し、香りの功徳を求めて困難な造作を完成させた。平成16年に開眼したご本尊の千手観世音菩薩像は光背を含めると6mにも達する巨像で、柔和なお顔をされており、微かながらお香の匂いがしたような気がした。
【一言アドバイス】
境内からは万葉集にも詠まれている蒲(が)生野(もうの)の長閑(のどか)な景色が一望でき、見飽きることない。この地から1キロ先に信長の安土城があったと知ると、歴史好きには別の興味が湧いてくる。時間があれば安土城天主や城郭資料館を見たかった。
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