超高速 西国33番「順打ち」巡礼編その13【20善峯寺、21穴太寺、22総持寺】OB首長~気まま旅~
第20番札所 西山 善峯寺(にしやま よしみねでら)
野をもすぎ 山路にむかう 雨の空 よしみねよりも 晴るる夕立
西国巡礼一、心が和む名刹だ・・・
善峯寺は平安時代中期、長元2年(1029)に源算上人(源信の弟子)によって開かれた。浄土信仰では太陽が沈む西方の彼方に極楽浄土があると考えた。よってこの寺が建つ西山は、平安京や比叡山からは西方の連山にあたり、源算はこの地を阿弥陀如来の「浄土」と仮託したのだろう。創建当初は後一条天皇から「良峯寺」の寺号が下賜され、後朱雀天皇の勅命で新しい本像(千手観音像)が泰安されたという。この像は賀茂神社の霊木から造られたと記されているから、行願寺(革堂)の本像と同じである。
建久3年(1192)には後鳥羽天皇から「善峯寺」の新しい寺号が下賜され、官寺の地位に列せられたというから、天皇家・朝廷の覚えがめでたい寺だったといえよう。また、三世住職には慈円大僧正(摂政関白・九条忠実の実弟)が就いていることから、政権との関わりも深かったと推測できる。
室町時代には僧坊が52もあったという善峯寺だが、応仁の乱により大半が焼失してしまった。その後の復興を支援したのが徳川5代将軍綱吉の生母・桂昌院である。現存する鐘楼・観音堂・護摩堂などの堂舎や貴重な什物が寄進されている。境内にある樹齢600年を超える「遊龍の松」も桂昌院が移植したものと伝わっている。この松は全長が37mあり、主幹が地を這って延びており、国の天然記念物に指定されている。ここの境内からの視界は大パノラマで、京都市内が一望でき、盆地の先には東山連峰が美しく映える。
【一言アドバイス】
私と同じ「善」の字が含まれているからか、西国札所で一番相性の合うお寺である。京都にある寺にしては何故か落ち着き、ホッと一息つけるのだ。応仁の戦禍には遭ったが直接の戦場ではなく、鎮魂の必要な場所ではないからかもしれない。これぞ西国巡礼一の名刹・・再び訪ねて豪壮な山門と見事な「遊龍の松」をゆっくりと見てみたい。急がれるとも、善峯寺だけは時間を採って参拝されたい。
*「落ちないお守り」・・・阪神淡路大震災の折、阪神高速で前輪が落ちながらも奇跡的に乗客全員が助かったバスのことを覚えておられるだろうか。あのバスの運転手が身につけていたのが、善峯寺の釈迦如来のお守り。それ以降、交通安全と入試祈願の「落ちないお守り」として評判となり、その人気は今でも続いているという。
第21番札所 菩提山 穴太寺(ぼだいさん あなおじ)
かかる世に 生まれあう身の あな憂(う)やと 思はで頼め 十声一声
病気平癒の「なで仏」で有名な丹波の名刹
穴太寺の創建は奈良時代の705年で、文武天皇の勅願により、大伴古麻呂の開基と伝わる。西国巡礼でのご本尊は聖観音だが、この寺の代表本尊は薬師如来である。おそらく創建時の薬師信仰に、後の観音信仰が加わった結果であろう。この寺には、聖観音が自ら胸に矢を受けて仏師の命を救った、とする「身代わり観音」の説話がある。
この寺は比叡山の系統寺院であり、永らく丹波国の有力寺院であったが、戦国時代に入り、丹波は明智光秀の所領となった。その居城建設の資材調達のため、堂塔が解体される不運に見舞われ、穴太寺は一挙に荒廃したと伝わる。この寺からみれば、光秀は悪役なのだ。
再興された現在の本堂は、江戸時代の享保20年(1735)に建築されている。明治時代に屋根裏から見つかったという木彫の涅槃像(寝姿の釈迦像)は、「なで仏」という愛称で本堂に祀られており、参拝者は自由に触れることができる。涅槃像をさすった手で、患部をさすり返すと、諸病が治るといわれ信仰を集める。
【一言アドバイス】
さて、「身代わり観音」の話である。丹波国の郡司・宇治宮成が聖観音を彫った仏師の感世に礼として馬を与えた。ところが馬が惜しくなり、感世に矢を放って馬を奪いかえす。その後、帰宅すると矢が刺さった聖観音から一条の鮮血が流れていた。「観音様が身代わりになられた」と愚行を悔いた宮成は仏門に入り、穴太寺の再興に尽くしたという。そんな話を思い浮かべながら、参拝をされるのも一興かと思う。また、この寺の桃山風の庭園は丹波地方随一の名園といわれているので観賞されたい。
第22番札所 補陀洛山 総持寺(ふだらくさん そうじじ)
おしなべて 老いも若きも 総持寺の ほとけの誓い 頼まぬはなし
総持寺は「包丁流」の家元だった・・・
総持寺には寺の創建期が描かれた縁起絵巻が残されており、開基の中納言・藤原山蔭のことが記されている。山蔭は、子どもの時に水難(淀川に転落)に遭い、父(高房)が観音さんの縁日で助けた大亀に救われたのだと伝わる。仁和2年(886)山蔭はその亀に感謝して総持寺を建てた。ご本尊は高さが1mの千手十一面観音像(秘仏)で亀の座に乗っている。織田信長の茨木合戦で本堂は焼失したがご本尊は無事であったことから、「火伏せ観音」としても信仰されている。
開基の藤原山蔭は平安期に宮中料理の諸作法を整えた人物で「日本包丁の祖」と仰がれているそうだ。寺の境内に開山堂(包丁式殿)があり、毎年4月18日には、包丁式が古式に則って執り行われているという。また境内の奥には包丁塚があり、包丁を奉納する調理師さんたちの姿が絶えないとも聞いた。
現在、和食が世界的にブームになっており、和食文化としてユネスコ世界遺産に登録されている。日本料理を継承する調理師技能の向上・育成など課題があるなかで、総持寺は「包丁流」の家元として、大きな存在意義を有していることを知った。六角堂(いけばなの家元)といい、ここ総持寺といい、京都や摂津のお寺は各々特殊な顔を持っていることに感心させられた。
【一言アドバイス】
京都の近場の寺院参拝に慣れていたからであろうか、穴太寺から総持寺までは、かなり遠距離のように感じた。町中の寺院はいつも、駐車場の有無が気にかかるが、総持寺は、すぐ隣に相応のコインパーキング場があるので、まず心配はいらない。「包丁流」・・・こんど「廻らない寿司屋」を訪ねたら、大将に総持寺のことをご存知か、尋ねてみたい。
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