超高速 西国33番「順打ち」巡礼編その10【14三井寺、番外 元慶寺】OB首長~気まま旅~

第14番札所 長等山(ながらさん)園城寺(おんじょうじ) (三井寺(みいでら))

 いで入るや 波間の月を 三井寺の 鐘の響きに あくる湖

 

政争に耐えた「不死鳥の寺」・・・

園城寺の寺域は35万坪といわれ、大寺院であるとともに正に名前通りに政争を重ねてきた城郭である。天台宗寺門派の総本山で、かつては日本を代表す「四箇大寺(しかだいじ)」の一つで、法祖は智証大師(円珍)。唐で学んだ円珍は、天台宗に密教をもたらせ、平安仏教を真言宗と二分させた。その円珍の仏教書物を所蔵するために再建されたのが園城寺で、当初は比叡山延暦寺の別院とされた。

 

三井寺 金堂

 

しかし円珍没後のこの寺は、天台宗の内部分裂の火種となっていく。円珍門流は分離独立して天台宗寺門派と呼ばれ、延暦寺側は天台宗山門派といわれた。抗争は源平から信長・秀吉までをも巻き込み、戦国時代末期まで500年も続いた。焼き討ちが繰りかえされ、幾度も存立の危機に見舞われたが、それらを乗り越えて復興を重ねた寺であり「不死鳥の寺」とも形容される。・・だが件の記載は園城寺の正式パンフレット等にはない。

 

では何故「三井寺」と呼ばれるのか? この寺域には、天智・天武・持統の三帝の産湯に用いられた霊泉があり、「御井(みい)の寺」と呼ばれていたものを、後に円珍がこの寺の厳儀・三部灌頂の法水に用いたことに由来する、と寺史にある。しかし園城寺の生臭い過去の記録を消し去り(超越させ)古代ロマンを彷彿とさせて寺に愛着を湧かせるための原名への回帰(工夫)とも考えられなくはない。

 

三井寺(御井の霊泉:閼伽井屋)

 

【一言アドバイス】

鐘楼は1602年に再建されている。「三井の梵鐘」は近江八景の一つとして有名で、日本の三銘鐘にも数えられている。三銘鐘?実は私も知らなかったが、あと2ヶ所は宇治の平等院、高雄の神護寺。三井寺の梵鐘は荘厳な音色で「日本の残したい音風景100選」に選ばれている。大晦日の「除夜の鐘」で、テレビ放映に登場するので音色を聴かれた方は多いと思う。桃山建築の代表作、国宝の金堂とともに、この鐘楼は必見である。

 

三井寺(三井の梵鐘)

 

 

番外札所 華頂山 元慶寺(がんけいじ)

待てといわば いともかしこし 花山に しばしと啼かん 鳥の音もがな

 

西国巡礼の再興者・花山法皇に所縁の寺

京都山科の元慶寺は花山法皇が出家した寺であり、その開基は桓武天皇の孫で歌人としても知られる僧正遍照だ。今は住宅街にある小さな寺(堂舎)だが、かつては七堂伽藍を配する大寺院(勅願寺)だったという。花山帝は在位2年弱で退位され、ここで落飾された。藤原兼家(道長の父)陰謀説が有力で、嘘をついて(花山帝を)退位・落飾させたと云われており、その後、兼家は孫の一条天皇を即位させて自らは摂政となり、藤原摂関家の基盤を強固にしていった。

 

元慶寺(山門)

 

一方の花山法皇は、その後、仏道の道を究めようと日々を過ごされ、書写山や比叡山、熊野での修行を重ねられた。室町時代に書かれた観音巡礼の逸話は、花山法皇が衰退しかけた観音巡礼を再興させたと記している。法皇は熊野権現から、徳道上人が埋めた宝印のことを知らされ、中山寺(西国24番札所)でそれを掘り出して各霊場に配るための旅に出たとあるのだ。江戸時代になると花山法皇の伝説は庶民の間に広まり、西国巡礼への願望や共感が生まれたと云われている。ここ元慶寺は花山法皇を通して、西国巡礼とは切っても切れない寺として番外に遇されているのだ。

 

元慶寺(堂舎)

 

【一言アドバイス】

(失礼を承知で率直に言えば)ここ元慶寺は西国巡礼の中で一番知名度の薄い寺である。大津市の三井寺から国道1号線を通り京都市内に向かいながら、沿道にある元慶寺には気がつかず、今熊野まで先に行ってしまった。そこで気がつき、慌てて逆戻りして参拝するという失態を演じたのだ。戻る途中の国道沿いに大きな看板標識はあり付近までは行けるが、実際には住宅地に隠れて探すのに苦労するほど小さな堂舎なので気をつけられたい。(駐車場が狭そうなので)近くのスーパーに車を留め、早足でお参りをして失礼した。番外だが、花山法皇に縁の深いお寺である元慶寺を、忘れないで参拝してもらいたい。

 

 

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