超高速 西国33番「順打ち」巡礼編その14【23勝尾寺、24中山寺、花山院】OB首長~気まま旅~

第23番札所 応頂山 勝尾寺(おうちょうざん かつおうじ)(かちお寺)

 重くとも 罪には法の 勝尾寺(かちおでら)  ほとけを頼む 身こそやすけれ

 

勝尾寺(山門)

 

「勝運」と「勝ちダルマ」の派手な寺

勝尾寺は最勝ヶ峰(540m)の山腹に8万坪の境内を持ち、とにかく大きな堂塔が約30も建ち並ぶ。それらの堂塔の多くは鎌倉時代に源頼朝が熊谷直実を派遣して再建されたものだと伝わっている。とにかくハデなお寺で、本堂での読経が遠くの駐車場までスピーカーで流れているのに、まずビックリした。

 

勝尾寺(本堂)

 

「当山は大阪平野の真北にそびえ、数千年の昔より、山自体の持つ霊力と、1300年念持込んできた念力により、無類の聖地として崇拝されてきた」と寺のパンフレットは書き出す。この寺では善仲・善算という修行者が草庵を結んだ神亀4年(727)を開創年とし、桓武天皇の異母兄である開成皇子が弥勒寺を建立した天平神護元年(765)を開基年としている。ご本尊は身の丈8尺の十一面千手観音座像で、「妙観」という観音化身の比丘と18人の仏師が彫ったといわれている。ちなみに「観音さんの縁日」が毎月18日なのは、「妙観」らが観音像を完成させた日が18日だったとの勝尾寺の古事に由来するという。

 

弥勒寺と称していたが、勝尾寺と寺号が変わったのは平安時代初期の6世住職・行巡上人の頃。行巡は清和天皇の玉体安穏を祈って効験を示したことにより、王に勝つ寺「勝王寺」の寺号を賜ったのだが、寺側は「王」の字を「尾」に控え、「勝尾寺」と号したと伝わっている。この由来が転じて、源頼朝はじめ鎌倉時代から武家の覇者達が合戦の武運・勝運を祈ったことから「勝運の寺」・「勝ちダルマの寺」として勝運信仰の歴史が始まったという。

 

奉納されている「勝ちダルマ」

 

【一言アドバイス】

勝運・厄除・試験・商売・スポーツ・芸事・病気など、あらゆる運気の願いごとに来る参拝者が絶えないようだ。境内には勝運成就して奉納された「勝ちダルマ」が、ところ狭しと並べられている。世の中にこんなに沢山のダルマがあったのかとビックリするほどである。また、ダルマの並ぶ店内が出口となっており、商売上手なお寺でもある。道路は整備されているが、急坂とカーブが多いので、運転には気を付けられたい。

 

 

第24番札所 紫雲山 中山寺(しうんざん なかやまでら)

 野をもすぎ 里をもゆきて 中山の 寺へ参るは 後の世のため

 

中山寺(寺門)

 

「安産」と「子授け」で有名なお寺

中山寺は聖徳太子が約1400年前に開いた日本最初の観音霊場だと云われている。ご本尊の十一面観世音菩薩は、インドの王妃(勝蔓夫人)の異国風の等身像だ。古来よりこの寺は、安産・子授けの信仰を集めており、江戸時代の末期(幕末)に安産の腹帯「鐘の緒」を授かった中山一位局が、無事に明治天皇を出産されたことから、日本で最初の「明治天皇ご安産の勅願所」となり、一躍有名になったようだ。

 

中山寺(本堂)

 

聖徳太子がこの寺の開基になった理由には2説があるという。その1は、太子本人の観音信仰への篤い志とする。観音の浄土のことを一般に「補陀洛」というが、一方で菩薩の山を「中山(ちゅうざん)」と称するそうだ。よって、中山寺は日本最初の観音寺院ということになるというのだ。その2は、崇仏派と排仏派の争い(586年)が背景にあるという。蘇我氏と物部氏の微力衝突がおこると、太子は蘇我軍に加わって勝利者の側となった。負けた物部氏は一族もろともに滅亡した。その霊を慰めるために建てたのが中山寺だという説である。いずれも妥当と思われる。

 

中山寺から西国巡礼の再興が始まっている。閻魔大王の夢告を受けた長谷寺の徳道上人が観音霊場巡礼の普及を図ろうとするが叶わず、大王から授かった33ヶ所の宝印をこの寺の石棺に埋めたというのだ。それから270年後に花山法皇がこの宝印を掘り出し巡礼を復活させた、との伝説が残されている。

 

中山寺(大願堂)

 

【一言アドバイス】

毎年8月9日に催される「星下し大会式(たいえしき)」は33所観音にちなんだ行事で、法会の夜には西国33所のすべてのご本尊が中山寺の屋根に星が降るように来迎されるとされ、その日に訪れた参拝者は、西国33所の寺院すべてを巡礼したと同じ功徳が1日にして得られると云われているのだ。私も2回目の西国巡礼は、この日1日参拝で済まそうかと、安易な策を考えているところだ。忙しい人向けの簡便な策だが、本当に功徳が一緒かどうかは保障いたしかねる。

 

番外札所 東光山 花山院菩提寺 (とうこうざん かざんいんぼだいじ)

 有馬富士 ふもとの霧は 海に似て  波かときけば 小野の松風

 

花山院(山門)

 

花山法皇の魂が眠る寺 別格聖地

東光山は白雉2年(651)に法道仙人が開き薬師如来をご本尊とした。その300年後に花山法皇が西国33所再興の旅の途中において強い霊感に導かれて立ち寄られた山だと由来書にある。巡礼後、法皇は41歳で崩御されるまでここで過ごされたと記されており、崩御の後に法皇の供養のために寺院を建立し、寺名を花山院菩提寺と称したと云う。境内は標高300mにあり、有馬富士や播州平野が一望できる。

 

番外の「元慶寺」でも触れたが、花山帝の落飾は藤原兼家とその息子・道兼(道長の兄)の悪企みであったが、後には時の実力者・藤原道長とは良い関係にあったと伝わる。法皇の憎めない人柄や風雅な生活も道長に好かれる理由だったのかもしれない。良好な関係は法皇の生涯にわたって続き、道長の大成とともに法皇への財政的な支援も充実していったのではないか。

 

法皇は今の価値観では理解しがたい奇行もあったが、詩歌に通じて『拾遺和歌集』などの歌集を編むほか、音楽・工芸・絵画・造園・建築などに秀でていたとも伝わり、人間的な魅力には富んだ方だったようだ。落飾の後は、自らが望んで一般社会に身をさらしながら、感性のままに生きられた方なのであろう。

 

花山院(本堂)

 

【一言アドバイス】

第2行程:2日目(通算4日目)の最後に訪ねたのが花山院で、入山時間の間際となった。朱印(押印)は住職ご本人と思われる方がされており、話好きな人であったのを思い出す。説法をされようとしたが、途中で閉門時間となり、続きは改めて聞きに来て欲しい、と言われた。天気が良く眺望が素晴らしかったことと、説法の語り口調をよく覚えている。登山道路の入山制限時間は4時30分と早く、閉門時間は5時となっているので特に気をつけられたい。

この日も1日で8ヶ寺を廻ったが、ここの行程は8ヶ寺が限界である。

 

 

 

↓こちらもあわせてどうぞ…超高速西国33番「順打ち」巡礼編その13

超高速 西国33番「順打ち」巡礼編その13【20善峯寺、21穴太寺、22総持寺】OB首長~気まま旅~

 

コラム